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関東管領(かんとうかんれい)は

関東管領(かんとうかんれい)は、南北朝時代から室町時代に、室町幕府が設置した鎌倉府の鎌倉公方を補佐するために設置した役職名である。当初は関東執事(かんとうしつじ)と呼ばれていた。鎌倉公方の下部組織でありながら、任命権等は将軍にあった。

鎌倉府は、足利尊氏が嫡男の足利義詮を鎌倉から京へ呼び戻し、代わりに亀若丸(足利基氏)を関東統治のために派遣したのがはじまりで、幼い基氏を補佐するために執事と呼ばれる補佐を置いた。京にも将軍を補佐する執事(後の管領)が存在したため、これと区別するために「関東執事」と呼ばれた。当初は2人指導体制で、上杉憲顕、斯波家長、次いで高師冬、畠山国清らが任じられる。関東執事は、初期においては斯波氏、畠山氏が就任していたが次第に上杉氏に独占されていき。最終的には、上杉氏が世襲していくことになる。また、上杉氏は上野、伊豆の守護も担っていた。

直義方であった憲顕は失脚して越後国で引退するが、1362年に基氏が願って復職した後に関東管領と呼ばれるようになる。憲顕は当初北関東を管理していた。基氏の急死後の1368年、武蔵平一揆の乱を鎮圧し、南関東の鎌倉公方の直轄領をも管理下に収めた。応永6年(1399年)に足利義満に挑発されて大内義弘が挙兵した応永の乱では、上杉憲定は義弘に呼応して挙兵しようとした足利満兼を諫言した。以後は山内上杉家、犬懸上杉家が独占し、1417年に犬懸上杉氏憲が滅亡すると山内上杉家の世襲となる。

主には、支配地域の守護及び地頭の管理に当たっていた。武蔵守護も兼任し、関東一円の武士を掌握し次第に、鎌倉府以上の力を持つようになり鎌倉公方と対立していくことになる。

1439年に第4代鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教と対立すると、管領上杉憲実は持氏を諌めるが、自身が暗殺される風説が流れると、管領職を辞して上野国(群馬県)に逃れ、憲実追討のために持氏が兵を起すと武蔵国府中に陣を構え、幕府と連合して持氏を自害させ鎌倉府を滅亡させるまでに至る(永享の乱)。その後下総の結城氏などが持氏の遺児を奉じて結城合戦と呼ばれる反乱を起こすと、鎮定に協力するために復職する。その後は1447年の鎌倉府再興まで東国支配を関東管領が受け持つことになる。再興後も鎌倉府と関東管領の対立は続き、持氏の子足利成氏が鎌倉公方となると、1454年に成氏は管領上杉憲忠を謀殺する。成氏が幕府から派遣された今川範忠に鎌倉府を追われると、成氏は古河を座所とする(享徳の乱)。古河公方と名乗った成氏と関東管領上杉顕定の間で和解が成立するのは28年後の事であった。なお、この乱の最中に足利政知が新たに堀越公方として関東に下るがこの際に政知の補佐役として上杉教朝・渋川義鏡が任命され、関東管領と区別するためにその旧称である「関東執事」が一時的に復活している。だが、この間に庶流の扇谷上杉家が山内上杉家に迫る勢力を得た事から、1487年に顕定が扇谷上杉家討伐を開始する(長享の乱)。18年続いたこの戦いは顕定の勝利に終わったが、通算して50年にわたった戦乱で関東はすっかり荒廃した上に、扇谷上杉家が堀越公方を攻め滅ぼした伊勢宗瑞(北条早雲)を関東に招き入れた事によって後北条氏の台頭のきっかけを作ってしまう。
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16世紀に入って後北条氏は関東中心部へと勢力を拡大していくが、山内上杉家は2度にわたる家督争いによって自ら勢力を後退させていき、1546年河越夜戦において古河公方足利晴氏、関東管領上杉憲政、扇谷上杉朝定連合軍が北条氏康に敗北すると、古河公方、山内上杉氏はともに没落する。上杉憲政はついに関東を放棄し領国から常陸国の佐竹氏のもとに向い当時、常陸国に勢力を拡大して勢いに乗る佐竹義昭に、関東管領職と上杉氏の家名を継承してもらう代わりに保護を求めたという(以前佐竹氏には上杉氏から養子を迎えて家督を継がせた経緯があった)。しかし、佐竹義昭は管領職にこそ魅力を感じたようだが、清和源氏の末裔としての佐竹氏の誇りからか、上杉氏の家名を継承する気にはなれず、これを拒否したという。その後、上杉憲政は常陸国から越後国に向い、もとは家臣筋であり外戚でもあった越後長尾氏を頼った。1561年に上杉憲政は山内上杉家の家督と関東管領の職を、越後三条長尾家の長尾景虎(後の上杉謙信)に譲った。景虎はこのとき名を上杉政虎(後に輝虎・法名は(謙信))と改める。

しかし、すでに関東管領は実質的には機能しておらず輝虎の死をもって終焉を迎える。

武田氏滅亡後の上野国に入った滝川一益は関東管領の機能を期待されたとも言われており、研究者の中には一益が実際に関東管領に就任していたという者もいるが、信憑性には疑問も多くはっきりしていない。

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2009年06月06日 08:58に投稿されたエントリーのページです。

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